2013年1月7日星期一

【紅と白 高杉晋作伝】関厚夫(51)覚醒篇 風雲(二)

【紅と白 高杉晋作伝】関厚夫(51)覚醒篇 風雲(二)
安政7(1860)年2月7日、雨。 松陰が落命して100日がたったこの日、松陰の実家であり、またその敷地に松下村塾がある杉家で、鎮魂祭がいとなまれ、松陰の前髪が出生地の「団子岩」ちかくの墓所に葬られた。 参列したのは晋作や玄瑞をはじめ、中谷正亮(しょうすけ)、佐世八十郎(させやそろう)、品川弥二郎、時山直八、久保清太郎、岡部富太郎、作間忠三郎、松浦松洞(しょうどう)(松陰肖像画の作者)ら十数人。松陰はこのときまだ、公儀(幕府)にはむかった罪人である。晋作たちの決意と結束の固さがうかがえる。かれらはのちに“松下村塾派”を構成するのだが、その過半数が、幕末・維新期に命を落とす。(これでは、なんのために晋作を帰郷させたのかわからない) 晋作の“隠密行動”を察した、そんな高杉家の意向、さらには進境著しい晋作をエリートとして育てたい、という藩中枢の意向がはたらいたのだろう。師の鎮魂祭から4日後、数えで22歳の晋作は藩校・明倫館練兵場の教練御用掛(ごようがかり)に登用されたかとおもうと、その1カ月後には明倫館舎長(しゃちょう)を命ぜられた。 当時、明倫館の入学者は優秀な者から順に通学生→入舎生→居寮生→舎長といった順に選抜されていった。舎長は10人前後いたのだが、もはや生徒というよりも、学頭を頂点としたピラミッドの最底辺ではあるが、明倫館教官の一人といえた。 晋作にとっては立身だったが、松下村塾(村塾)にとっては痛手だった。このころ、入江杉蔵は玄瑞につづっている。《近ごろは俗論の勢いが日ごとに盛んなありさま。中谷どのも進退おもうにまかせず、高杉君も舎長になってしまったので、もう村塾についやす時間はないでしょう。なんとも村塾の零落(れいらく)が思われてなりません》(しかし、村塾がさびれてゆくのも仕方がない) と晋作はおもっていた。(だいいち、松陰先生あっての松下村塾ではないか。たとえ玄瑞であろうと、そのかわりができるものではない。 それに、先生は「わが死を哀しむな。わが志を大きくせよ」といいのこされた。ときはすでに乱世、激動の時代をむかえている。いまはもはや机の上ではなく、実際の世のなかで先生の志をいかにつらぬき、大きくしてゆくかが問われているのだ) 晋作がそう考えるのには十分な理由があった。松陰の命をうばった「安政の大獄」を主導した幕府大老・井伊直弼(なおすけ)が白昼、登城途中に襲われ、暗殺されるという事件がおこった。 「桜田門外の変」である。
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